どうやって命を選ぶのか
こんにちは。
今週からオンラインでの授業が始まりました。
大変だけど、今までまるでやることがなかったのに比べれば時間も早く感じて、少し楽しい気もします。
私が取っている授業の中に倫理学があります。
その倫理学の授業の中に挙げられた例の一つを簡単にご紹介します。
ある病院に、透析療法を必要とする患者さんが5人いました。しかし、その病院にある透析機は2台。5人の中から2人選ぶために、神様委員会が設置されました。
みなさんはどのような方法でその2人を選んだと思いますか?
この例は1900年代のアメリカであった実例ですが、つい最近も似たようなことは世界で起こっています。
イタリアで新型コロナウイルスによって医療現場が崩壊し、人工呼吸器が足りなくなりました。医師たちは涙ながらに、お年寄りの方から人工呼吸器を外していく決断をしました。それはすなわち、命を終える作業をしていくという決断です。
私はこのイタリアの話を知っていたこともあり、授業の例の話も、若い人が選ばれたのかなと思いました。
正解は、正解、というべきなのかわかりませんが、その時に用いられた判断基準は、一番社会貢献度が高い2人を選ぶというものでした。
これについての感想を書くレポートが出席を取る方法だったので私もすぐにレポートに取り掛かりました。
自分は若い人が選ばれるのかと思ったこと。
社会的貢献度が高い人が選ばれるということに納得したこと。
納得、、はしました。しかし、疑問も生まれました。
もし人が人生で積む徳の多さが誰しも同じだとしたら、この方法で選ぶと必然的に長く生きている人が選ばれることになります。しかし、長く生きていればいるほど社会に貢献しているのかと言ったらそうとも限らないので妥当とも言えますが、まだ働くこともできない幼い子がその5人の中にいたとしたら、どうやってその子は社会貢献力を認めてもらえるのでしょうか。必ずしも働いていないと社会に貢献していないと言うわけではありませんが、少なからず不利になってしまうのではないかと思いました。
不利、という言葉を使いましたが、これは勝ち負けの時によく使われる言葉な気がします。
では、透析療法を受ける2人に選ばれることは勝ちだったのでしょうか。
治療が受けられ、先の未来が見えることは幸福ではあると思います。でも、選ばれなかったら負けなのか、不幸なのか。そう考えたら、決してそうとは言えません。
長生きすることが勝ちなら、私の父は負け組です。でも、父の人生の濃さ、父がいてくれたからこそ私たちが得た幸せ、それを考えたら決して負け組でもなければ、かと言って勝ち組でもありません。
命に勝ち負けはない、でも、命の選択を迫られた時、それはまた難しい話なんだと改めて考えさせられました。
一斉に始まった授業の課題を慌ただしく片付けていく中で、この倫理学の授業は時が止まったように深く考える時間になりました。
みなさんもお時間があればぜひ、色んなことを考えてみてください。
ちょっとした気づき、ちょっとした思いつきで世界が変わって見えるかも、しれないので。
それでは。